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文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
干支(亥年)で辿る洋傘の歩み(上)
― 明治8,20,32,44,大正12,昭和10年 ―




 来る2007年・平成19年は亥(いのしし)の年、干支(えと)でいえば丁亥(ひ
のとい・テイガイ)に当たる。干支は60年周期なので、明治20年(1887)と
昭和22年(1947)が同じ丁亥の年となる。亥は十二支の12番目。方角では北
北西、時様では午後10時頃(また、その前後2時間)を示す。

 そこで、明治以降の亥年における洋傘関連の事象を振り返ってみたい。


◎ 明治8年(1875)・己亥(つちのとい)
 文明開化期の様子を風刺的に描いた河鍋暁斎は、この年『怪化百物語』を 刊行している。怪化とは、勿論「開花」をもじったもの。その中に「女学生」 の図がある。彼女は日本髪で着物に袴姿の下駄履き。肩にショールを掛け、 左手で書物を抱え、右手に洋傘を持っている。  当時の女学生の多くが上流家庭の子女であり、ファッションでも先端を拓 いたのであったろうが、河鍋の目には和・洋装の取り合わせがいかにも怪化 (開花)と映ったのであろう。  この頃と前後した時期、洋傘が登場する多くの風俗画が描かれていて興味 深い。
◎ 明治20年(1887)・丁亥(ひのとい)
東京・銀座煉瓦街が柳並木通りとなり、鹿鳴館に白熱灯が点り、仮装舞踏 会が開かれた時代。年収300円以上に所得税が課せられた。  明治5年前後から始まった製傘業が順調に発展、輸出が盛んとなる。この 年は洋傘輸入が全額で2,106円に対し、輸出は26,856円を記録。  この頃、洋傘でも婦人用が独立したものとなった。東京・日本橋十軒店(室 町)の泉彦商店が初めて販売したと言われてる。溝地金(当時は丸骨を使用す るのが大部分。)の骨で生地はヌメ(綿繻子)の表が白茶、裏が緑地。絵柄は花 模様が多く、周縁部に捺染した。女子学生用には8間もので20〜23吋(50 〜57.5cm)の傘が出る。記事は黒の綿繻子。セルロイド製の手元が製作され る。
◎ 明治32年(1899)・己亥(つちのとい)
 甲州(山梨)でジャガード織機による紋傘地(紋織洋傘生地)の生産始まる。尺 5寸幅の男物。  東京『向島の花見帰り』図に、着物姿の女性たちが、当時流行した長柄の 深張り傘をさしている状景が描かれている。  8月4日に初のビアホールが銀座の新橋際に回転。ビールの値段は半リッ トル10銭、4半リットル5銭。米相場は一升が12銭前後。  この頃の洋傘小売値は、男物=溝骨並物4〜6円、やや上物7〜12円、絹 艶・珍耳は手元も高級品で17〜18円。女物=甲州生地7〜13円、西陣生地 15〜25円。子供用=2円50銭〜80銭といった具合い。かなり高額品だった 訳である。  なお、この年の洋傘生産高は409万8千本余、全額で245万8千円余。 単純平均で1本60銭になる。半リットルのビール6杯分相当。
◎ 明治44年(1911)・辛亥(かのとい)
 鉄骨鉄筋初の帝国劇場開場。「今日は帝劇、明日は三越」が流行語に。東 京・白木屋百貨店の増改築完成、業界初のエレベーター、回転ドア設備。百 人も入る食堂では、寿司15銭、汁粉5銭、紅茶5銭、サイダー10銭など。  男物洋傘の小売値は、ゴム綾地張の細巻型3円60銭、黒甲斐絹張の細巻 型4円50銭〜6円、黒琥珀地張の太巻型11円など。12年前とあまり変わっ ていない。  黒田忠譲が「ステッキ式洋傘」を考案している。
◎ 大正12年(1923)・葵亥(みずのとい)
 9月1日に関東大震災が発生。マグニチュード7.9で、阪神・淡路大震災 の7.2を上回っている。震災後の新商売で、茶碗1杯の白湯1銭、煙草のバ ラ売り1本1銭、西瓜1切れ10銭、コップ酒1杯20銭、ライスカレー10 〜20銭、牛飯大盛10銭など。  女優の栗島澄子モデルの洋傘宣伝ポスター出る。米アルトマン商会のクレ ント張洋傘が流行。東京主導だった洋傘育業が震災の打撃で廃業したり、大 阪等へ移住する者が多く、以後、大阪での洋傘育業が発展へ向かう。  震災前には8間主体だったのが、後には10,12,14,,,24間のものが出る。  手元には殆どのものに携帯便利のための絹製や革製の手提げ紐が付けら れた。材料では、リス(合成樹脂)、セルロイド、ジュラルミン、黄銅めっき、 ニューム製などが用いられた。 ◎ 昭和10年(1935)・乙亥(きのとい)  前年12月に丹那トンネルが開通、その効果で熱海などの温泉客が激増、 旅館は満員盛況。  文芸春秋社が芥川賞、直木賞を創設。  絹羽二重にオイル加工した「オイルシルク傘」が考案され、洋装婦人層に 珍重される。が、収納した時に生地が密着する等の苦情も出た。  当時、絹傘地には、品質の良いものから順に「藤娘」、「五千番」、「藻苅」、 「玉島」の銘柄があった。  一般的な洋傘の小売値は70銭〜1円20銭位。1ダースで50銭から1円 程度の利益であった。芸妓の玉代が1円80銭位。熱海温泉の一流旅館で1 泊3〜4円位の時代であったそうな。  年間製傘量は936万本で、昭和11〜12年の960万本に次ぐ、戦前のピー ク期であった。 (※)次回は、昭和22年(丁亥)、34年(己亥)、46年(辛亥)、58年(葵亥)、平成 7年(乙亥)。

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