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文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
再考「こうもり傘」について




◎排撃から歓迎へと逆転


 日本で発達した紙張りの傘は、和傘(唐傘)と呼ばれるのに対し、布地を張ったも
のは西洋より伝来したことから洋傘と称されている。しかし、洋傘という名称が定
着したのは割と近年になってからで、それまでは(今でも一部の人たちは)蝙蝠傘と
一般に呼ばれていた。


 慶応3年(1867)に出た『西洋衣食住』には、「傘をヲムブレラ、傘は何れも絹布
にて張り、日本の如き紙張のものなし」と記述しており、布地という素材の違いを
強く意識している。

 また、『武江年表』の慶応3年条には、「此頃、西洋の傘を用ふる人多し。和俗、
蝙蝠傘といふ。但し、晴雨ともに用ふるなり。始は武家にて多く用ひしが、翌年よ
りは一般に用ふ事になれり」とある。




 日本で使われてきた紙張りの傘には、雨傘と日傘の別があるが、西洋から渡来し
た布張りの傘は、雨と晴れの両方に使える便利な傘(先進的文明品)であるという捉
え方がうかがわれる。その西洋から来た傘を俗に「蝙蝠傘」と呼んでいたことが知
られる。初めの頃は、その他に西洋傘、南京傘、異国傘などとも呼ばれていたよう
である。


 ちなみに慶応3年、江戸城本丸多門を警備している薩摩隊員の一人(隊長か)が椅子
に腰かけて西洋傘をさしている写真が残っている。




 万延元年(1860)、咸臨丸(遣米使節)の軍艦奉公木村摂津守が蝙蝠傘を一本買い、
「この傘をさして江戸の町を歩いたらどうだろう」と聞いてみると、周りの者たち
は「芸の屋敷から日本橋まで行くうちに、攘夷浪人たちに生命を取られることにな
るだろう」と応えたという話が『福翁自伝』に語られている。わずか7年ほどの間に、
武士階級における西洋渡来の傘に対するイメージが、劇的に変化したことになる。


 なにやら、太平洋戦争中は鬼畜と憎んだアメリカ人を戦後になるや、自由民主主義
の使者として迎え入れた変転ぶりが想起されたりもする。



◎横浜の伊勢勘が命名は俗説?  さて、万延元年の『玉虫日録』第一差・紐育市の条に「道路往行には、男女皆、 蝙蝠傘を携ふ」とあり、『明治事物起原』では、これが文書の上で見られる蝙蝠傘 の初出であるとしている。蝙蝠傘の由来に関しては、次のような話が巷間で語られ てきている。  ――横浜における洋傘商の元祖とも目される小島勘七(伊勢勘の初代)が古道具類 を商っていた頃、その中に洋傘があり、客人にその名称を問われたが、傘ではある ものの正式の名前を知らない。そこで、色(生地)が黒くて、骨があり、広げると 蝙蝠の羽のような形に見えることから、咄嗟に「蝙蝠傘である」と答えたというの である。  しかし、小島が命名者とするこの話は、西洋文化の窓口であった横浜と洋傘商の 先行者とを結びつけた後代の人々のこじつけ論のような気がする。 〔補足〕小島勘七は伊勢の人で、一旗揚げようと江戸へ向かう途中、横浜が活気あ る町であることから、ここで商売することを決意。先ず、外人居住地から払い下げ た家具や生活用品の古道具商を始めた。それら古道具類の中に洋傘が何本か混じっ ており、それを補修などして店に並べたところ、折からの欧風ブームの中で求める 人が多く、洋傘を中心の商売が繁盛して、やがて材料を輸入して製造販売するまで に至ったようである。伊勢勘は、輸入品の生地見本を山梨の機織り業者に示し、洋 傘地の開発を促しており、これが優秀な傘地として評価された「甲斐絹」である。
◎蝙蝠傘と西洋傘が併存  さて「蝙蝠」の名称であるが、嘉永7年(安政元年・1854)にアメリカ使節のペリ ー等が下田に上陸した時の光景を樋畑翁輔が写生した『彼理提督来朝図会』の中に、 傘を開いたのと、たたんだ形のと二図が描かれ、その横に「雨傘、鯨骨にて八本、 導き絹を張り、チャンを指込たるものと覚ゆ。色黒くして蝙蝠の如く見ゆ」と 添え書きしている。  これが「蝙蝠傘」の嚆矢かと思われ、前述のように、万延元年の『玉虫日録』や 『武江年表』慶応3年条の表記につながっていると考えられる。  一方、明治2年(1869)の『韮山請払帳』7月22日に「西洋傘御買上代、金貳両」と あり、同4年(1871)の『新聞雑記』11号にも「西洋傘」と表記され、 また、明治5年(1872)の『東京府志料』では、「西洋傘」と「蝙蝠傘」を併記する など、明治の初期に洋傘の呼称が必ずしも一定したものではなかったようである。 (なお、『東京府志料』に見る限り、蝙蝠傘よりも西洋傘の方が、やや高級感があ るとされていたように思われる。)

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