◎「延べの木柄」ってナニ?
洋傘の構成要素を大別すると、いわゆる傘型の覆いとなる生地、その生地を貼り
付けるフレーム(親骨と受骨)、それを中心で支える柄あるいは中棒(シャフト)
そして使用する時に握る部分となる手元(ハンドル)に分けられる。
現在では、中棒と手元は各々独立した部品となっているが、洋傘が日本で流行し
はじめた明治初期の傘は、殆どのものが中棒と手元が一本の棒から成っており、手
元に相当する部分が「L字型」に曲げられたものであった。
これを当時は、「延べの木棒(または木柄)」あるいは略して「延べの棒」とか、
単に「延べ」と呼んでいた。
手元部はL(エル)字型のほかに、ストレート型があり、これは寸胴(ズンドー)
型といわれた。のちにJ(ジェイ)型やO(オー)型が出てくる。
因みに単語を辞書で見てみると―――
《柄(え》
(杖から転じたもの)。手で持つために器物に取り付けた棒状の部分。把手。
《手元・手許(てもと)》
@手の届くあたり、 A手に握る部分、B手つき、手並み、
C(相手の手並みが見たいの意から)酒をすすめられた時、
逆に相手にすすめる語。
D暮らし向き、箸。
《shaft シャフト》
@やりの柄、A(矢のように飛ぶ)光線、
B(おのなどの)細長い柄(ハンドル)
《handle ハンドル》
@(道具などに取り付けた)柄、取っ手、
A捕らえるべき(乗ずべき)機会、口実。
――― とある。
つまり、柄と手元、シャフトとハンドルは共に意味内容に共通したものを
含んでおり、混同使用されるのに不都合はなかったのであったと思われる。
即ち「延べの棒」は名訳ともいえる?。
◎木棒業者を援けた晴雨兼用傘の流行
当初にあって「延べの木柄」であったものも、その後の時代変遷における様々
な趣向の高まりもあって、「手元」部に美や価値を求める要求が強まるに従って
「中棒」と「手元」に分離されるようになる。それが業として定着するのは、
明治後半期から大正初期にかけてである。
初期の洋傘は「木製の中棒」だけであり、日本で製造が始められたのは
明治26年(1893)頃からともいわれる。しかし、洋傘の生産(需要)は季節的な
変動が激しく、木棒の業況は繁閑の差が大きいことから不安定なため、なかな
か発達する状況にはなかったようである。
木製の中棒製造が、ほぼ年間を通して安定化したのは昭和6年(1931)頃から
同15年(1940)頃までの約10年間にわたり、「晴雨兼用傘」が大流行した時期で
あった。
「晴雨兼用傘」は一時、「雨傘」をしのぐほどであった。
一方、金属製の中棒は、明治27年(1894)頃から亜鉛めっきが出来るようにな
ったとされるものの、市場的には大正初期に先ず男性用として採用され、大正中
頃には全国的に普及して輸出向けにも使われるようになった。なお、金属製の中
棒は「金柄」(金棒)と呼ばれた。
女性用の金柄は「総ホワイト」骨または「銀金」という名称で昭和5年(1930)
頃から製造され、同13年(1938)頃に大流行となった。
◎戦時下に揺れ動いた金棒と木棒
昭和12年(1937)7月7日、盧溝橋事件が起こり、日中戦争の発端となった。これ
による国内非常時体制下にあって、戦争遂行上からの割当配給制が実施される時代
となった。
このため、「ホワイト骨」の原材料払底を見越した業者が製造を急ぎ、また需要
面でも先行き品薄感から消費者の購買心が刺激されるなど、13〜14年にかけて「ホ
ワイト骨洋傘」が大流行となった。
戦時体制が進む状況下で、金属製の「洋傘骨」「中棒」が反省されるような風潮
となり、ここに「木棒」が再評価される情勢となった。
昭和15〜16年(1939〜40)になると、生産資材が入手難になった金棒業者は、生
活問題だとして当局に「資材の増配」方を願い出た。一方の木棒業者からは「木棒
こそ国策路線に沿ったもの」という主張がなされ、中棒をめぐって「金」と「木」
の陳情競べを呈するような事情であった。
戦後(1945〜)は、再び「金棒」全盛時代となるが、1980年代からDC(デザイナ
ー&キャラクター)ブランド傘や高級品への「木棒」使用が評価される時代が到来。
そして1983年頃から、フレームにハイテク新素材が導入されるようになり、現在に
至っている。
|