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文・著作権 鈴木勝好(洋傘タイムズ)

Y O U G A S A * T I M E S * O N L I N E
◆◆◆日本の傘 (和 傘)◆◆◆
――――――その文化の一端を顧みる――――――



 日本は世界一の傘市場であるといわれる。
毎年のように総人口に近い数量の傘が出荷されている。それほどにも日本人は「傘好
き」なのだともいえよう。どうやら日本人は古くから殊の外、傘に関心を示している
が、日常生活の中まで定着したのは、やはり江戸時代だといえる。日本の「傘文化と
伝統」に触れる一端として、江戸時代を少し振り返ってみよう。




 (A)傘の生産地

 江戸時代に生産された傘は、一部の絹張りを除いて、殆どが和紙を張った傘、いわ
ゆる「和傘」と称されているものである(当時は、傘を「からかさ」と呼んでいた)。
 紙張傘の生産は、宇多天皇時代の寛平4年(992)頃には大阪で行われており、鎌倉・
室町時代になると、「七十一番職人歌合」や「職人尽図」などに傘張職人がみられ、
唐傘座という職人組合のような組織もできている。
 傘作りは、江戸時代に各藩での産業奨励もあって各地で盛んになる。産地興隆の主
な経過としては――――――

 難波・高津辺・・・・・秀吉以前(1570年代)より。
 福岡・・・・・・・・・分禄年間(1592〜96)より。
 伊賀・・・・・・・・・戦国時代(1610年頃)より。
 紀州・・・・・・・・・元和年間(1615〜24)より。
            2代将軍秀忠の時代。同じ頃、広島でも。
 岐阜・・・・・・・・・寛永年間中頃(1635)より。三代将軍家光の時。
            加納傘として有名になる。


 元禄年間(1688〜1703)、五代将軍綱吉の頃には、爛熟した江戸文化の風潮を反映し
て、加賀(金沢)、新潟、熊本などでも傘業が盛んとなる。
 この頃に生産された主なものが「蛇の目傘」であった。当初、僧侶や医者が多く用
いたが、次第に近世を通じて広く愛用されるようになった。





 (B)蛇の目傘の多様な展開


 蛇の目傘は、天井(開いた時の中心部)と外円周部に青土佐紙、その中間部に白紙
を張ったもので、開くと蛇の目のような模様に見えることから名付けられた。価は2
朱ほど。
 元禄の前、貞享年間(1684〜88)に、江戸で紅葉傘が出た。これは天井部に青土佐紙
、他の部分に白紙を張ったもので、蛇の目に近いが繋ぎ糸の外に装飾糸があり、柄が
藤巻きで、より上品とされた。

 文化年間(1804〜18)に出た『我衣』に、「貞享より地のもみ地傘。きゃしゃ也。天
井青紙、青どさにて、細工ヘリを取、絹糸装束柄と巻。元禄より、蛇の目傘出る云々
」とある。

 
  <蛇の目傘のバリエーション>

 ◎女傘蛇の目張・・・・・元禄の末に京阪地方から出る。天井が萌黄で、小骨を黒
塗り。これに五色の糸装飾を三段掛けにしたもの。武士の内室が多く用いた。価は2
朱。※5代将軍綱吉の時代。

 当時、京阪の婦女は自分では傘を持たず、端女(女中さん)に持たせて差しかけさせ
たので、柄の長い、大きな傘を用いた。
 江戸では、自分で持つことから、柄が短い。柄の長さは軒下(洋傘の露先部)より
、およそ一握りを適当とした。


 ◎細身の蛇の目・・・・・元文年間(1736〜41)から細身が好まれ、細骨を使用。こ
れを磨き骨の尤物(すぐれた物)といった。価は銀6〜7匁(もんめ)から金2朱内
外。 ※8代将軍吉宗の時代。

 当時、江戸では渋蛇の目を用いず、男子は骨数60本の白紅華傘、婦女は黒蛇の目を
使用。


 ◎奴蛇の目・・・・・明和年間(1764〜72)に江戸で用いられた。天井部が白、外円
周部がおよそ2〜5寸幅の薄墨色。 ※十代将軍家治の時代。

 当時、土平という飴売りが日傘をさして江戸中を売り歩いたと『続飛鳥川』にあり
、次の川柳がみられる。
      飴売りは天気になって傘をさし



 ◎黒蛇の目・・・・・天上部と外円周部が黒で、中間の白の部分の幅が狭い。外円
周部の黒に白抜きの家紋を入れたりした。


 ◎紺蛇の目・・・・・諸藩で軽輩の士にさすことを禁じた。


 ◎更に細身の傘・・・江戸で天文の頃に細身になった蛇の目傘が、天明年間(1801〜
3)、江戸で骨数60本、小骨に糸飾りを施した小形の紅葉傘が作られた。蛇の目傘と大
黒傘(番傘)の中間位で、東大黒傘ともいわれた。

 文化年間(1804〜16)の頃から、黒蛇の目には赤漆、紅葉傘には黒漆で、自称の一字
、家号、定紋、番号などが入れるようになる。



  (C) 武家の傘張り内職は正徳の頃から

 江戸の御家人が傘張りを内職するようになったのは正徳年間(1711〜16)、7台将軍
家継の頃から。芸洲藩ではもっと早くからといわれる。
 当時、江戸での生産は僅かで、需要を賄えず、多くを大阪から仕入れていた。これ
を「下り傘」といった。

 正徳4年(1714)の大阪移出商品のうち、傘は234,250本とある。その殆どが下り傘で
あったと思われる。

 安政3年(1856)の『安政貨物移入禄』には、下り傘が年に26,000本とある。傘の生
産地分散化と江戸での生産増がこの背景に窺えそうだ。


     あめあめふれふれ かあさんが
     蛇の目でおむかえ うれしいな
     ピチピチ チャプチャプ
     ランランラン


 ある時代の人々には、母への追憶とともに、懐かしく想い出される唱歌であるだろ
う・・・・・・。













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